久々の更新。
正直、さぼるとかさぼらないのレベルではないくらいずっと書いていなかった。
その間に、世間も身の回りも目紛しく変わったように思う。
民主党が握っていた(終盤ガタガタだった)政権は、自民党の圧勝で元通りの自民公明連立政権に戻ったし、テレビのバラエティは本当にお腹を抱えて笑えるものも無くましてや、「なるほどぉ〜」と思えるものも無い状態。
唯一NHKだけが興味をそそる情報を放送している。実は、バラエティやドラマも民放より面白いんではないだろうか。
世界は、日本は、今どのように変化しているのだろう。
この国は、どうなってしまうのだろう。いい意味でも、悪い意味でも。
「広い視野で物事を見定めなくてはならない」と、購入する本で最近よくこの言葉を見るのだけれど、ノマド化すると言われている未来は本当に幸せな世の中なのだろうか?
15年ほど前、僕はまだ幼かった頃、台湾の台中市という田舎町によく行った。
幼少だったからだろうか、感性はまだ確固たるモノを持っておらず、柔軟だった。
日本を離れる瞬間、つまり台湾に向かう瞬間は日本というホームグラウンドの心地よさから離れたくない気持ちが強く、憂鬱な気持ちで機内から見える日本を眺めていた。
でも、台湾の人や、モノ、空気(排気ガスや騒音など)に触れると、日本を出るときのあの気持ちは一掃され、素直に居心地が良かったのを覚えてる。
現地では、おじさんたちが挨拶代わりにタバコを差し出す。お互いに差し出すから双方が相手の銘柄のタバコを吸い、軽くほめる。
一見無駄なように見えて、面倒な気を使う挨拶を割愛するための重要なコミュニケーションだ。無駄なように思えることも、その土地の文化や風習をうまく汲んでおり、実は凄く重要なモノだったりする。
最近、よくその頃の気持ちを思い出す。
モノの満ち足りている社会を当たり前だと思って過ごしている僕らは、工夫を忘れているように感じる。
モノが満ち足りることを人は「幸せ」と呼ぶのだろうか。
モノが満ち足りていないことを人は「不幸」と呼ぶのだろうか。
正直、どちらでもいい。
ただ、僕個人は「幸せ」も「不幸」も自分次第だと思っている。
他人と比べることをするのではなく、自分を冷静に見ることが重要な気がする。
「忘己利他」なかなか出来るものではないけれど、今一度コンクリートではなく、砂利や泥にまみれて自らを考え直すべき時なのかもしれない。
モノ有り余って、盲目になってやしないだろうか。
モノ有り余って、満足がぼやけてはいないだろうか。
少なくとも僕は忘れている。